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キジカケル突撃レポート! 2026年03月10日更新
キジカケル突撃レポート!

第73回 キジカケル 突撃レポート!~有島武没後110年、有島家に迫る編~

# 歴史
第73回 キジカケル 突撃レポート!~有島武没後110年、有島家に迫る編~

本市には、数々の功績を残してきた偉人たちがたくさんいます。

その中の一人、平佐出身の有島武は1916(大正5)年の没後から今年で110年を迎えます。そこで武の人物像やその子どもたちを含めた有島家の功績などについて深ボリします。

有島家の家系図

三男・里見弴の随筆「父を語る」によると、娘の愛子と志摩子の名前の由来は、有島を鹿児島弁で発音すると「あいしま」となることから名付けられたんだって。

有島 武

貧しかった幼少期

有島武は、1842(天保13)年、薩摩国平佐郷平佐村(現在の平佐町)で誕生しました。父・有島宇兵衛(ありしまうへい)は平佐領主北郷家に仕える武士でしたが、1847(弘化4)年に起きたお家騒動(平佐崩れ)に巻き込まれ、トカラ列島の臥蛇島(がじゃじま)へ遠島処分されてしまいます。この出来事により、家族は生活が不安定になり、厳しい経済状況の中で生活することになります。

人生の転機

1856(安政3)年、平佐領主北郷久信(ほんごうひさのぶ)に雇い入れられます。書記として文書の記録などの他、日常的な雑務など側近としての役割を果たし、武はこれを期に周りからの信頼を高めていくことになります。

学び多き青年期

20歳になると北郷久信に随行して江戸に行き、砲術を学びます。当時の薩摩藩は西洋軍事技術の導入を積極的に進めていて、武は最先端の軍事教育を受けることができました。

その後は、第一次長州征伐に従軍しました。帰藩後は薩摩藩の洋学校「開成所」に入学し、寺島宗則(てらしまむねのり)から英学(英語)を本格的に学ぶことになります。

この青年期で得た多くの経験が、武の活躍に大きくつながっていきます。

最新の軍学や英学を取り入れようとする強い向上心の持ち主だったんだね!

平佐を離れ東京へ

1872(明治5)年、町田久成(まちだひさなり)(薩摩出身の要職者)の支援もあり、武は租税寮(のちの大蔵省)で官僚として働くことになります。

東京に移り、1877(明治10)年には山内幸子(やまのうちゆきこ)と結婚します。結婚後は今までの実績が評価され、関税局長、横浜税関長、国債局長などの重要な役職を歴任し、「明治建国のデザイナー」と呼ばれました。

有島家の集合写真(1896(明治29)年)

51歳の時、大蔵大臣と政治上の意見で衝突し、職を自ら辞めてしまったんだって。

実業界で活躍

官僚を辞めた後は、第十五国立銀行、日本鉄道会社、京都鉄道会社、山陽鉄道の重役を歴任します。官僚時代の経験で培った能力を発揮し活躍しました。

その後、北海道マッカリベツ(現・ニセコ町)に農場を計画します。これが後に長男・武郎が無償で農場を開放することになる有島農場のはじまりです。

有島農場開拓の様子(有島記念館提供)

主に、ジャガイモやコメを作っていたんだって。

息子たちは父をどう見ていたのか

貧しかった幼少期を経て、官僚、実業家として活躍してきた父を息子たちは著書やインタビュー記事の中で次のように語っています。

【武郎(たけお)】

真正直な性格で、頑固に自分の態度や考えを譲らず、粘り強く物事に取り組む人であった。外から見たら冷たい人に見えていたかもしれないが、心には熱い情熱を持っていた。
・「私の父と母」参考

【生馬(いくま)】

自由というべきか、放任というべきか分からないが、勉強しろとは一度も言われたことがなく、口ではなく態度で示していたと思う。
・南日本新聞「父・有島武を語る」(昭和44年2月24日付)参考

【里見弴(さとみとん)】

どうして父のような人から我々のような兄弟が生まれてくるのか不思議なくらい、仕事や勉強に誠実な人だった。
・「父を語る」『自然解』所収参考

武の活躍を記念して、1934(昭和9)年、平佐町に記念碑が建てられました。写真は左から、里見弴、生馬、行郎夫妻です。

有島武頌徳碑(ありしまたけし しょうとくひ)の前で

武の土地などの遺産は、すべて平佐村(現・平佐町)に寄贈したんだって!

Googleマップ(有島武頌徳碑)

有島 武郎

長男の武郎は、1910年代に活躍した白樺派の中心作家で、理想主義、人道主義を重んじる文学で知られています。

武郎は、相互扶助(自分だけが得すればよいのではなく、全員が助け合うことで共同体が安定する)の考えをもっていました。

父の死後、有島農場の地主となります。当時は、農地の所有権は地主にあり、農作物を作る小作人は、地主から農地を借りる形で、収穫した一部を地主に納めなければなりませんでした。

武郎は、小作人が困窮している様子を目の当たりにし、自らが地主であることの矛盾に苦しみます。自分の考えを大事にし、小作人全員に農場を無償で解放するという歴史的決断をしました。

この決断は、当時多くの人に衝撃を与え、現在は、当時の有島農場跡地に有島記念館と農場開放記念碑が建てられています。

08有島記念館有島記念館(有島記念館提供)
農場開放記念碑(有島記念館提供)

有島 生馬(有島 壬生馬)

次男の生馬は、日本近代洋画の発展に大きく貢献した洋画家、小説家です。

東京外国語学校で学んだ後、1905(明治38)年にイタリアとフランスへ留学します。1907(明治40)年にフランスの画家・セザンヌに深く感銘を受け、帰国後に「白樺」誌でセザンヌを日本に最初に紹介した画家として知られています。1914(大正3)年には洋画団体「二科会(にかかい)」を創設。退会後、安井曾太郎(やすいそうたろう)らと「一水会(いっすいかい)」を立ち上げ、日本洋画の近代化を牽引しました。

生馬は17歳の頃、肋膜炎の療養のために本市で暮らしてたんだって。
静養中、日本のカトリック僧と出会った事がきっかけで、ヨーロッパの芸術に魅かれるようになったんだって!

生馬が伝えたかった思いとは

生馬の作品の一つに、「江南の春」があります。

この絵は東京在住の平佐出身者の声に応えて描いた作品です。

作品は、川内まごころ文学館に展示されていて、その解説によると、「江南とは、中国南部・長江下流域のことで、古くから春や豊かさを象徴する地として表されていました。描かれた頃は日中戦争中で、江南一帯に戦火が及び始めていた時代でした。

生馬はこの絵の裏に、ひとつの英語タイトルを書き添えていました。
「Peace amidest war by IKUMA ARISHIMA 1939(ピース アミデスト ウォー バイ イクマ アリシマ)」直訳すると戦争の中の平和。戦争のさなかであっても、かすかに存在する平和への願いが込められていたのかもしれません。」と説明されています。

ぜひ作品を見に来ませんか。

ぜひ作品を見に来てね!

里見 弴(山内 英夫)

四男の里見弴は、白樺派の中心的作家です。生まれてすぐ、母・幸子の山内家の姓を継ぎます。本名は山内英夫(やまのうちひでお)。

短編小説を得意とし、人間心理の細やかな分析と描写が秀逸でした。

志賀直哉(しがなおや)や武者小路実篤(むしゃのこうじさねあつ)らと文芸雑誌「白樺」を創刊。

「まごころ」を重んじる独自思想を持ち、人間の弱さや愚かしさをあたたかく描く作風が特徴的で、代表作には「善心悪心」「極楽とんぼ」などがあり、特に極楽とんぼは晩年の代表作として高い評価を受けました。

亡くなる直前まで創作を続け、白樺派最後の作家と呼ばれる存在でした。

極楽とんぼ

ペンネーム里見弴の由来は、電話帳をペラペラとめくり指でトンと突いた場所がたまたま里見姓だったからみたい。

平佐西小学校や川内商工高等学校など、父・武の誕生の地を訪れて講演会を行っています。

高校生に講和を行う里見弴

川内まごころ文学館

つながる思い

川内まごころ文学館には、有島家の過去が分かる年表や作品が多く展示されています。他にも里見弴が住んでいた家の中が再現されていたり、当時の様子を感じることができます。

また、ニセコ町と本市は、有島家のゆかりの地として有島芸術三兄弟文学館姉妹館盟約を結んでいます。毎年どちらかに訪れ、文化交流を行うなど、有島家がつないだ思いが今も引き継がれています。

特別企画展を開催します

3月17日(火曜日)から5月10日(日曜日)まで、川内まごころ文学館で、「第20回特別企画展有島武1842-1916」を開催します。

有島武が亡くなってから110年が経つのを記念して、その生涯と業績を紹介します。興味のある方は、ぜひこの機会に、有島家の歴史に触れてみませんか。

料金
  • 大人=300円
  • 小中高生=150円
(注意)小中高生は、土曜日・日曜日、祝日は無料です。

川内まごころ文学館ホームページ

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